外来でのこと、認識のこと、自己超克のこと

 

 元日のお昼前ごろ、すさまじい頭痛と共に目が覚めた。とても起き上がれない。ひどい風邪を引いたようだ。もう寝正月にしよう。コロナだったら面倒だが、熱も咳も無いしおそらく大丈夫か。二度寝の態勢に入るとすぐに意識が消滅した。ここで新年最初のまさか自分がポイントを大量獲得してしまう。

 家族は私が寝込んでいるらしいと知っていたが、昼まで寝るのはいつもの事だし、呂律が回っていないのは寝起きならそんなもんだし、しつこく起こしには行くまいと思ったらしい。まさかこいつがポイント……ではなく、これは常習的に遅寝遅起き生活をしていた私の自業自得による失点である。

 

 そしてたぶんお昼過ぎ、こいつさすがに起きてこなさすぎだろうと思った家族に声をかけられたが、なんと返事ができない。口が動かない。頭がものすごく痛い。物理的に起き上がれない。無理に体を起こそうとして嘔吐してしまった。視界がおかしい。色はわかるが輪郭がわからない。後期印象派の絵画みたいだ。これは一体どうしたことか。今は何時なのか。わからない。ここから数日間、明暗の違いでしか時間を把握できなかった。単に時計が見えないからである。頑張れば見えるのなら『見れない』と書くが、頑張っても見えないので、つまりもうさっぱり『見えない』のだ。当然ながら文字も見えないので、デジタル時計があっても読めないか、そもそも時計サイズの大きさならそれ自体を見つけられなかっただろう。おそらく瞳孔と眼球の筋肉が狂っていたのだ。ついでに内耳と脳の接続も狂っていたので平衡感覚が失われており、床を這って進み、記憶を頼りに洗面所まで行き、便座に掴まりながら用を足し、父の肩を借りて車まで歩いた。家を出る前に水と一緒に粥かゼリーのようなものを口に入れてもらったような気がするが、水しか喉を通らなかった。

 後部座席でぶっ倒れている間ずっと気分が悪く頭を起こすこともできかったので、持ち物について少し考えてみた。あっ……保険証と免許証とスマホ忘れた……。身元不明でも急患を断らない人道的配慮が身に沁みるね……。結局、スマホなんかは持ってたところで画面が見えず指も動かないから忘れてもよかった。それより病名がわかった時点で運転禁止令が出て、取りたてホヤホヤの免許証が身分証明機能付き紙切れになったショックはデカかった。まだ1週間も乗ってないのに……!

 

 病院に辿り着いたものの相変わらず体は言う事を聞かず、警備員の方が車椅子を持ってきてくれたので、それに乗って入った。この時、父が「少しは自分でやれ!」と、つまり車輪の横の輪っかなり何なりを使って自分で進まんかいという意味の事を言ってきたのだが、今思えばそれは理不尽すぎるだろ……

 最近になって知ったが、介助者は座っている人の手足が挟まれないように見張っておいて、あまりジタバタさせるべきではないらしい。勉強になる。こうなる前に知りたかった。危ないし。まあ自分で進もうとしても左腕、つまり左の車輪しか動かせないので延々とその場で右旋回し続けることになるし、周囲が見えていないので右旋回し続けていることにも気付かないという、真夜中に計器が故障した飛行機の挙動みたいな感じになってしまうのだから、大人しく座っていて正解だったのだ。ちなみに車椅子に運転免許は必要ない。よかったね。よくねえよ。

 

 私が入口付近でジタバタしている間に、母が受付を終わらせてきてくれた。問診票らしき紙が渡されたが、字が見えないし鉛筆も持てないので、母に書いてもらった。「はい」と「いいえ」の二択は上半身を頭ごと前後に揺らすか左右に揺らすかで判別してもらった。お薬手帳も忘れたので現在服用している薬の欄は記憶を頼りに口述筆記でなんとか……したかったが子音が発音できなくて正確に伝えられない。フヤアァアゥウウ!じゃねんだよな。でも左手は動く、モールス信号でも覚えておけばよかった、これもしかして『ジョニーは戦場へ行った』で見たやつでは……。無情にも追加されていくまさか自分がポイント。どうにもならない。ここまで何分、何時間経ったのか。何もわからない。近くで扉が開き、人影が出てきた。私の番が来た。

 

 

 

 流れと全然関係なさそうでちょっと関係ある話を書いておく。時計の話で少し触れたが、健常者と障害者の頑張れば何とかなる物事と頑張っても何にもならない物事の認識の間には、大きく、埋めがたい断絶が横たわっている。退院して1年以上経った今でも、思いがけないところから現れるこの溝に引っかかってしょうもない苦痛を味わっている。一生味わい続けるだろう。以下に、まだ誰にも言ったことのない……というより言っても理解されないだろうと半ば諦めてかけている恨みつらみと嘆きと愚痴をグチグチと連ねる。

 普通の人間同士の認識の差異は、比較的小さいか、双方の努力によって克服可能であるか、そもそも非常識であるとして処理されるため、それなりに円滑な合意の形成に至る。認識の溝を無視して勝手に話を進めてくるやつは、悪質クレーマーとかハラスメントとか想定外とかいう名前で類型化され、対策が取られる。例えば、お酒が飲めない人に飲酒を強要した場合、それはアルハラである。誰かに生身で宇宙に行ってくれと依頼した場合、現実とSFの区別も付かない馬鹿なのかなと思われる。当然である。「当然だ、常識だ」という合意ができている。(化外の地に住むバルバロイのありえん狼藉に悩まされている方には申し訳ないのだが、あくまで一般論としてはこんな感じだろうと思われる。)

 健常者と障害者との場合には……わかりやすく腕が無いとか、白杖を突いているとか、こういう誰が見てもわかりやすい溝ならばまあまあ埋めやすい。骨折したてホヤホヤでギプスを付けた人をバスケに誘うやつはそういない。誰が見ても道理に適っているとわかる物事ならば、合意の形成は容易である。一方、「その活動にはコミットできない」というマイナス方向の合意は障害者を疎外する要因にもなる。障害者を助けながら自分の面倒も見る余裕のある強者ばかりではない。大半の人にとって、私のような存在は、憐れで、怖くて、邪魔なのだ。どうしても大縄跳びに入れないやつが一人いる。今さらルールを変えたら、他の全員の努力はどうなる。あえてこいつを入れてやるメリットが無い。こいつは要らない。そこにいるのはいいが、こっちに来るな……。ほとんどの人が心の最奥で優生学の芽を育てている。最も無邪気な者が、最良の栽培者になり得る。その根は育ち、広がり、精神を縛り付ける。当の障害者でさえも、そうなる

 幸いにも私には、目に見える程の後遺症は残らなかった。自力で立ち上がり、歩き回れるまでに回復した。それなりに自由を取り戻した。では何が不満なのか。予想以上に回復しすぎてしまったのだ。は?意味が分からない。ワガママか?九死に一生どころか四生くらい得たんだから超ラッキーだろう……。だが、徐々に思い知ることになる。この、パッと見健康そうだが実は障害者というクッソ面倒な立ち位置の弊害を。ある種の謙虚さは甘えと見分けが付かないという現実を。

 具体的な例を挙げると、まず障害者手帳がもらえない。大学中退かつ肉体労働しかできない私がデスクワークを強く希望するにあたって、身体を動かせないことの証明が求められた。とりあえずハローワークに手帳を持って行けばいいのだが、どうしてもその手帳を交付してもらえる基準を満たせない。頭も手足も全く動かない訳ではないから著しい失調とまでは言えないということだ。そんなバカな。神経が壊死してるんだぞ。せっせとリハビリに励んだ結果がこれか。仕方がないので精神障害の方で無理やり取った。身体と精神では給与に9万円ほど差があるらしいが、嫌なら障害者雇用枠狙いをやめて健常者と同じ土俵で就活バトルするしかない。勝てねえ。ニッチな分野を専攻した時点でどうせ就活難民になるだろうと思っていたが、こんな状況は想定してねえ。人生を失敗する才能を低く見積もりすぎていた。まさかこれほどとは……。

 また、私が皆の邪魔にならぬよう引っ込んでいる時、なんというか……単に怠けているように見えるらしい。これを指摘されるとかなり効く。つらい。認識の溝が埋まらないそこに溝があるという事実自体を理解してもらえない。退院してすぐの頃、家族と買い物に行った際に、私が軽い荷物しか持ちたがらないという理由で喧嘩になり、体が耐えられないという弁明を聞き入れてもらえなかったため、わざと重い袋を持って当然のように引っ繰り返る様子をじっくり見てもらうという強硬手段でわかってもらった。自分でもアホかと思うような話だが、ここまでやらないと理解が得られないのだからやるしかない。断絶が認識されないならば、認識できるように可視化するしかないのだ。わざわざ無能のレッテルを貼ってもらうために無能を演出しなければならないとは……私にだって最低限のプライドが……しかし実際に無能なのだから……情けない!気が狂う!助けて!大掃除やら荷物運びやらに私が参加しても逆に迷惑をかけてしまう、なぜなら私自身がみんなのお荷物だから。皮肉がキツすぎる。いっそ死んでしまいたい。やっぱり『ジョニーは戦争へ行った』じゃん。もうだめだ……。

 

 これ以上の状態は望めないところまで努力して、なお困難に直面することがあった時、もはやそれはcan't doやdon‘t try to doではなく、beであるただ、そうあるもの。自分の希望を差し挟む余地はない。祈ったところで全てが思い通りになるわけではないことは、十分よくわかっている。目の前の現実を否定することは、即ち現実逃避である。状況を理解し、肯定し、そうあるものだという前提に立って初めて、自己超克に挑むことができる。簡単に「やればできる」などと言うのは、現実を直視する勇気のない楽観主義者か、さもなくば真面目に考える気がない全くの傍観者か、どちらかだ。根拠のない励ましは、真剣に試みる者に対する侮辱だ。「できそうにない」と素直に認め、可と不可を明確にし、可のリソースで不可を補い、効率化し、最適化する……そのような試行錯誤をこそ、努力と呼びたい。

 私は今日までずっと言われてきた。「努力が足りない」「本気で困っているなら動けるはず」「やる気がないからできない」と……。何が「努力が足りない」だ。ふざけるな。じゃあなんだ、パラリンピック選手はオリンピックの出場権を勝ち取る努力が足りなかったからパラリンピックに出ているとでも言いたいのか?ナンセンス。どういう論理だ。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。努力と苦行を区別して考えられないのか。頼むからやめてくれ。こういう言説はもう聞き飽きた。それは既に満ち足りている者の耳に聞かせる言葉だ。既に手に入れた者、既に「できた」者を満足させるための甘言だ。つまり、自分に向かって言っているのだ。自分に言い聞かせたところでその努力なるものの成果が灰燼に帰す可能性は消えてくれないのだが。ただ、私の耳に入れないでくれ。ただ、愚かさだけを忠告してくれ。愚かさゆえに笑われるのは我慢できる。やっと理解しつつある、屈辱は人間を成長させてくれることを。しかし、疲労と苦痛に喘ぐ者をさらに惑わせる言葉だけは、未だに聞いていられない。その言葉で育つのは、的外れなアドバイスで人を困らせるような真似だけはすまいという決心だけだ。では何と言ってやればいいのか。わからないのか。では何も言うな。もしくは自分に聞け、「わかろうとする努力が足りないのではないか?」と。

 

 

 

 …………ニーチェ先生は本当に的を射たことを言うなぁ~。19世紀ヨーロッパのどん詰まりの地獄で煮詰まった闇鍋みたいな雰囲気の本を最近ずっと読んでいる。ニーチェ先生「それ書いて大丈夫?」みたいなことを平気で書くので読んでて楽しいんだけど、ちょっと厳しすぎてついて行けない。でもすき。あとは『論語』、というか漢籍全般も読んでいる。読んでいるんだけど、時代によって注釈が恣意的すぎない?何か怪しいなと思ってネットで調べたら全然違う解釈が出てきてびっくりする。ところで、こういうの全部大学時代にやっとけという勉強を今さらするやつ、ザ・暇人という感じでいいですね。ノージョブだからね。時間ならいくらでもある……と見せかけて後から取り返しのつかない事態になって焦るやつだ。狂う!おわり!